会長 熊谷 博
このたびの災害支援について、ささやかですがガレキの撤去、写真洗いなどに参加させていただきました。 ほんのわずかの奉仕作業でしたが、自然界の偉大さ、恐ろしさ、そして自然界のサイクルというものをまざまざと見せ付けられ、人間の活動というものに一層の謙虚さを思わざるを得ませんでした。 私は会の参加としての明確な理由として
①自然界の恩恵に対するささやかな恩返し
②山の会50年活動に対して社会への感謝
③将来の山の会の発展、創造のきっかけを、と位置づけました。
メンバーの心構えとして
①すべて自分たちで完結できること
②謙虚にさせて頂くと言う事を忘れぬこと
③相手(現地)に全てを合わせること
を申し合わせ、テント、火器、シュラフなど生活用具はもちろん、ヘルメット、スコップ、バケツなどどんな要求にもこたえられるようにと万全の態勢での出発となり、ささやかですがほぼ予定通りの活動ができ、参加者はもちろん関係者すべての方々に御礼、感謝申し上げます(以上)。
カンパを頂いた方々:志茂陽彦・伊藤 保・関根正明・宮崎清光・高橋貴美子・鈴木国昭・三浦博子・遠藤栄子・荻野喜久江(順不同・敬称を略させていただきました)
今回の活動に際し、われわれの行動に深い理解と共感をカンパの形でお寄せいただいた方々にあつくお礼を申し上げます。ありがとうございました。
日 時:平成23年5月3日(火)~5月7日(土)
隊 員:熊谷 博、M・Y、浅井信雄、元木義隆、内田實(非会員)、佐藤益國
活動内容: われわれは何をしに行くのか?到着するまで具体的なものは何も見えないまま出発をすることになった。僅かな情報源として、南三陸町のホームページに、5月10日小中学校の始業式とあるのを知り、そのこども達のために何かできないだろうか、被災地に子供たちの歓声があがればきっと大人たちも元気が出るに違いない、と勝手に思い込んでいたところもあった。往路は、5月の連休後半の始まりの日であるため、ある程度の渋滞は覚悟をしていた。が、不幸なことに東北道に入ると直ぐ事故渋滞に巻き込まれ、言いようのない不満に悶々としながら、イライラはつのるばかりだ。延々たる走行の後、漸くテントサイトに到着したのは12時間後だった(通常9時間)。その日のうちにボランティアセンターに行き、打ち合わせを済ませておきたかったのだが予定変更。翌日は5時起床。6時45分に1台の車で被災地に向かう。ボランティアに作業を選択する余地はないという。すべてはボランティアセンターの指示に従うことになっているのだ。ならば、われわれは外仕事であろうとどんな作業にも応じられると事前に連絡してあったのだが、その後の情報では「連休中はボランティアが多すぎて、新規の応募はお断り。継続の方優先です。受付は9時から。作業はニーズに応える形を採っており、並んでいただいても途中で打ち切りになる場合もあります。水道は復旧していません。テントを張る場所はありません。車中泊となります」ということで、勢い我々は競ってセンターの前に並ぶことになった。既に並んでいる面々は6時にはここに来たという。東北の鉛色の空は寒い。冬用のフリースを着ていても、足元から寒さが這い上がってくる。さんざ待ちあぐねた末に割り振られた仕事は、歌津地区の西光寺というお寺の清掃ということだった。一同ほっとする。チーフは山田さんと謂い、練馬から単身2トンダンプで駆けつけた坊主頭で、目がギョロリとした四十前ある。海沿いの道(45号線)を10台ほどの車を連ねて北に向かう。
町並みが消えていた。目に見えるものは堆積した泥と果てしもなく続く瓦礫の山である。行けど人間の営みのことごとくを奪い去り、大津波はあたかも邪悪な意思をもつ何者かによって岸から海水をひたひたと引きよせ、やがて、遥かな沖に戦慄すべき鎌首をもたげたかとおもうと矢のような速さで陸地へと迫り、近づくにつれ驚愕すべき高い水の壁となり、逆巻く大河の如く襲いかかったものなのだ。地上に立つものの一切を許さず、僅かに残されたものは骨組みだけの重量鉄骨と鉄筋コンクリート造の躯体のみである。あたかも冥界の幽鬼がいま歩を止めたかの如く屹立したままだ。窓が失われ、引きちぎられた布切れが風に揺れている。その屋上から黒色の魚網が纏いつき、海側に赤い浮き玉を引きずっている。邪悪な誘いが、いまにも戦いに敗れた幽鬼を再び海へとさらおうとしているのだ。「ここがお寺だ。」と降り立ったところに堂宇は無い。漁船が打ち上がっている。重量鉄骨が飴のように折れ曲がり空を指している。トタン、タイル、ちぎれた柱や梁、泥だらけの三輪車、布団、衣類、泥にまみれたベッド、海水に漬かった米や種籾、ひしゃげた車の数々、タイヤ、木片、黒や赤のブイ、プロパンガスのボンベ、ドラム缶などその他人間が作り出したありとあらゆるものが魚網に絡まり、或いは海砂と泥に半ば埋まっている。参道の両側に配された庭石もそれとは分からぬほどに泥と砂に埋もれたままだ。ここがあの、写真で見る皐月の美しく咲き乱れる西光寺なのか。
先ず、境内をきれいにしようと坊主頭の号令で作業を始める。その数30数人。鋸を持った者は折れた生木を切り落とし、或る者はその木を引きずって行く。或る者は、スコップで瓦礫をネコに積み押す。冷えた体からたちまち汗が吹き出し、ゴム手の中は汗がにじむ。すると、どっと声が沸き起こり、泥と瓦礫の中からお地蔵さんが現れた。無縁供養塔を祀っていたものであろうか、その数二十数体を数える。或る者は擁壁の上のひしゃげたネットフェンスのボルトを外そうと不自然な姿勢に力が入っている。泥にスコップを使えばシャツが引っかかり、化学繊維の糸がしつこく土中に引きずりこむ。或る者は無数の外れたタイヤを転がし積み上げる。絶えず埃が舞っている。或る者は泥にまみれたアルバムを見つけ、しばし深い溜息をついている。われわれはそのような写真や名前の入った貴重な思い出の品々を丹念に集めてボランティアセンターに持ち帰った。
二日目は、志津川地区の水尻川の上流で、菊花のハウス栽培農家の畑で同様の瓦礫の片付けと清掃を行った。武藤隊員は避難所の炊事・配膳の作業だった。
三日目は、“思い出さがし隊”と銘を打った写真やアルバムの洗浄作業である。すべてを失った被災者に一枚でも多くの写真を返してあげたいと、ボランティアセンターの大きなテントの中で、筆や刷毛で慎重に泥を洗い流すのである。泥まみれの一冊を開くと、成人式であろうか、着飾った若い娘の顔が誇らしげに浮かび上がってくる。或いはまた、旅行先であろう酒に酔った赤い顔が無邪気に肩を組んでいる。或いはまた、あどけない幼子の顔が、不注意な一はきであえなく消えてしまい慙愧の思いに駆られたものだ。土間からしんしんと寒さが這い上がってくる。泥が臭う。
その日は、早めに切り上げさせてもらった。隊員の誰もが疲労困憊だったから。幕営地に帰る道、志津川の海は何事もなかったかのように青く穏やかに広がっていた。そして、われわれの作業はほんのささやかなものだと痛いほど知らされたものだ。(佐藤益國記)
(写真をクリックすると拡大し、周りをクリックすると元に戻ります。)
写真は熊谷隊長、元木隊員、佐藤のもを使用しました。
行 程:
5/3 5:00八王子出発 =⇒ 国立府中IC中央道・首都高・東北道 =⇒ 若柳・金成IC一般道398号線 =⇒ 17:30三滝堂ふれあい公園 幕営 5/4 幕営地7:00 =⇒ 7:30ボランテアセンター8:45 =⇒ 9:00歌津地区西光寺 清掃作業 ―→ 16:00作業終了 =⇒ 17:00ボランテアセンター報告 =⇒ 18:00幕営地 =⇒ 18:45ヴィーナスの湯 =⇒ 21:00幕営地(夕食) 5/5 幕営地7:00 =⇒ 7:30ボランテアセンター8:45 =⇒ 9:00水尻川上流2.3km菊花ハウス栽培地 清掃作業(武藤さんはベイサイドアリーナ避難所で食事・配膳作業) ―→ 16:00作業終了 =⇒ 16:10入谷大船沢地区視察 =⇒17:00ボランテアセンター報告 =⇒ 18:30幕営地 5/6 幕営地7:30 =⇒ 8:00ボランテアセンター8:45 =⇒ 9:00写真の洗浄作業 ―→13:00作業終了 =⇒ 志津川地区視察 =⇒ 14:00 =⇒ 幕営地 (14:30熊谷・浅井隊員は撤収帰途に) 5/7 8:30撤収 =⇒ 一般道398号線 =⇒ 三陸自動車道 =⇒ 東北道・首都高・中央自動車道 八王子帰着。
お読みいただきありがとうございました。他の隊員からも文章をお預かりしていますが、続編として発表させていただきます。
テレビ等の映像で見る被災地は、あまりに破壊がすごくどうしようもないと感じました。 登山と同じで頂上は遠くても一歩いっぽ歩めば必ず頂上に着くごとく、支援隊の皆さんの献身が、大きな成果をあげていると、住職の感謝からも実感できます。 参加できなく恥ずかしいのですがほんとうにお疲れ様でした。ありがとうございました。